HOME > お知らせ > 大工原 恭 鹿児島大学名誉教授を偲んで

お知らせ

大工原 恭 鹿児島大学名誉教授を偲んで

坪内博仁
鹿児島市立病院長・鹿児島大学名誉教授・元肝細胞研究会代表世話人

大工原 恭先生のご経歴 (1937年4月9日生まれ、兵庫県出身)

1963年3月 大阪大学歯学部卒業
1963年6月 歯科医師免許取得
1967年3月 大阪大学大学院歯学研究科歯学基礎系(生化学専攻)修了
大阪大学歯学博士(課程博士)
1967年4月 大阪大学助手(歯学部生化学講座)
1971年9月 米国ブランダイス大学へ留学
(~1974年9月、Lowenstein教授研究室)
1977年7月 大阪大学助教授(歯学部生化学講座)
1979年4月 鹿児島大学教授(歯学部口腔生化学講座)
1999年10月 鹿児島大学歯学部長(~2003年3月)
2003年3月 定年退職
2003年4月 鹿児島大学名誉教授
2020年4月 ご逝去(享年82歳)
2020年4月 正四位・瑞宝中綬章

(ご経歴ならびに写真は「大工原 恭先生追悼集 令和4年6月 鹿児島大学歯学部大工原研究室同窓会」より一部修正の上転載)


鹿児島大学名誉教授(元鹿児島大学歯学部長・口腔生化学教授)大工原恭(だいくはらやすし)先生は令和2年4月5日に亡くなられました。佐々木裕前代表世話人から、大工原先生の追悼文を書くように依頼されましたが、私自身が区切りを付ける気持ちになれず、約束が果たせないまま過ごしてしまったことをお詫び申しあげます。

この度、鹿児島大学歯学部大工原研究室同窓会で大工原先生の追悼集を出版することになり、この機会に本研究会での追悼文を書かせていただくことにしました。この機会を与えてくださいました、佐々木 裕前代表世話人ならびに三高俊広代表世話人に感謝申しあげます。

大工原先生との出会いとHGFの発見

大工原先生と私が出会ったのは、鹿児島大学医学部に隣接して歯学部が設置された頃で、もう40年ほど前のことです。私が所属していた鹿児島大学第二内科は医局員が多く、十分な研究スペースがありませんでした。私は、大阪大学蛋白質研究所代謝部門に留学したことがあり、そのご縁もあって大阪大学出身の大工原先生の研究室で研究をさせていただくことになりました。

当時、年間の患者数が8,000人程度で、死亡率90%という劇症肝炎は、肝臓専門医にとっては大きな課題でした。劇症肝炎の治療法を開発するために、肝再生の研究をすることにしました。ラット肝細胞の初代培養の技術が確立した頃で、幸い、大工原先生が大阪大学から持って来られていた肝細胞を単離するための装置が研究室にあり、大工原先生の指導の下、初代培養ラット肝細胞を用いた研究を開始しました。

劇症肝炎患者血清を初代培養ラット肝細胞に添加すると、驚異的な肝細胞増殖促進効果があり、合田榮一助教授の指揮下で、私たちのグループは世界で初めて、肝再生因子である肝細胞増殖因子(HGF)を発見することができました。HGFは、長く世界の多くの研究者が追求してきた肝再生因子であったことから、当時のインパクトはとても大きかったと思います。大工原先生とご一緒し、世界のトップレベルの研究者が参加した米国Cold Spring Harbor LaboratoryでのSymposium "Regulation of Liver Gene Expression"で合田榮一助教授がその成果を発表し、高い評価を受けました。とくに、HGFが、部分肝切除ラットなどからではなく、ヒトの、それも劇症肝炎というまさに劇的な患者の血清から精製されたことは、驚きを持って受け止められました。HGFは、大工原研究室と第二内科坪内グループの共同研究の成果であり、大工原先生なしにはこの発見はあり得ませんでした。

大工原先生と肝細胞研究会

大工原研究室では、HGF発見やその関連の研究成果を発表するため、肝細胞研究会の前身である初代培養肝細胞研究会に参加するようになりました。初代培養肝細胞研究会は、徳島大学酵素研究施設市原明教授が立ち上げた会で、徳島市で開催されていました。大工原先生の恩師は、大阪大学歯学部生化学教授をされていた竹田義朗先生(のちに徳島大学歯学部長)で、市原先生は助教授をされていたということも、欠かさずこの研究会に参加した理由の一つだと思います。初代培養肝細胞研究会は、市原教授の定年退職後、多くの同好の士によって、肝細胞研究会に発展しました。大工原先生は、肝細胞研究会の監事を長く務められ、飛行機が苦手だったにもかかわらず、全国各地で開催される研究会に、南の鹿児島から列車を乗り継いで、真面目にいつも参加されていました。先生には鉄道での旅行がよく似合っているようにも感じましたが、それとともに、引き受けたことはきちんとやるという先生の責任感の強さを感じました。

大工原先生の思い出

大工原先生はシャイな先生だったように私には見受けられましたが、とても面倒見のいい先生で、研究室には第二内科の私たちだけでなく、いつも多くの学生や大学院生が集まっていました。霧島登山をして温泉に浸かって汗を流してからの、夜の食事会かに鍋パーティーは、秋の大工原研究室の恒例行事でした。本来、"登山しない者、食うべからず"でしたが、私はいつも鍋にしか参加しませんでしたが、許していただいていました。大工原先生は、大阪大学山岳部で本格的な登山の経験があり、定年退職後も、奥様と仲良くご一緒に山歩きを楽しまれていました。

私は、宮崎大学教授を経て、母校の鹿児島大学教授に帰り、再び、大工原先生とお遭いする機会が増えました。大工原先生は、定年後も大変お元気で、体調のことで相談を受ける機会は少なかったのですが、令和元年4月、体調が悪いというご連絡があり、私が病院長をしている鹿児島市立病院で診療させていただきました。幸い、初期治療が奏功し、寛解していましたが、約1年後に再発し、治療の甲斐無く、令和2年4月5日に亡くなられました。早いもので、亡くなられてまる2年が経ちました。体調が十分でないのに、私が病床にお見舞いに行くと、先生はいつもきちんと正座されて対応され、とても気を遣われて、私の方が恐縮しました。経過が良好だっただけに、あれほど急に再発するとは私も思ってもおらず、本当に残念です。

大工原先生のご逝去の時期は、政府によるコロナ感染拡大防止のための緊急事態宣言下で、通常の葬儀もできない状況でした。そのため、鹿児島県外の門下生は集まることができませんでしたが、門下生ですでに歯科医として県内で活躍している先生方や第二内科の先生方が集まり、先生のご逝去を悼みました。この度、門下生が集まって、先生の追悼集を出版したことは、大工原先生を慕う気持ちが大少しも変わらず門下生一人一人の中に生き続けていることを示していると思います。大工原先生は、そういう人間味のある、素晴らしい先生でした。

私にとって、大工原先生の思い出は、歯学部口腔生化学教室で出会った多くの人たちとの思い出でもあり、そこはHGF研究の源であり、私の人生そのものです。私自身も後期高齢者に近づき、人生を振り返る今、大工原先生ならびに先生方と出会えた幸運に感謝の気持ちでいっぱいです。

先生の追悼文がこんなに遅くなり、不肖の弟子をお許しください。語り尽くせませんが、大工原先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

令和4年7月7日

Page Top